ユニークポイント 師走のアトリエ 2週連続公演 坂口安吾「白痴」と岸田國士「命弄ぶ男ふたり」 ふたつの小説、あるいは戯曲を取り扱います。 |
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「いのちもてあそぶひと」 パンフレット掲載文 3月11日は、ちょうど「いのちもてあそぶひと」の台本の執筆時期でした。恐らく、あの震災がなければ、この作品はまったく違うものになっていたはずです。それがどのように違ったものになったのかはわかりません。よくなったのか、それとも悪くなったのかもわかりません。そんなことは考えても仕方ないことです。しかし「演劇なんてやっている場合だろうか」と思いながら、上演台本を執筆するというのは、正直つらい経験でした。 突然ですが、「つらさ」というのは比較されるべきものじゃありませんよね。そのつらさは、あのつらさよりつらい、なんて言われても困りますもの。私つらいんですと泣かれたら、黙って受け入れなければならないのです。それがダンディズムってものです。小さい子どもが食事を残したときに「アフリカの飢餓」を引き合いに出されても困るし、夏の日に、クーラーを我慢できない子どもに「お父さんの小さい頃」の話しをされたって困る。私のつらさは、比較されても、決して癒されることはない。 震災から9ヶ月がたちました。書店には、報道機関の出版する写真集や、ノンフィクションや、宗教家によるエッセイや、原発、放射能関係の本がたくさんならんでいます。それらの本を手に取ると、あの日がすでに遠い過去のような錯覚を覚えます。企業のホームページに掲載されたままの「東日本大震災で被災された方にお見舞い申し上げます」というメッセージが、更新を忘れただけのように思われます。すでに記憶の中から、失われはじめている。同時に、決して起こってはならないことが起こってしまいました。 私はいま、事後の世界にいるという感覚を覚えています。それはなかなか、つらい、ことなのです。 本日はご来場、誠にありがとうございました。 「白痴」 パンフレット掲載文 今年は夏の公演がなかったので、秋以降、アトリエで何か上演しようという話は劇団内で以前からしていました。俳優がやってみたいことをやってみる機会にしてもいいし、これまでやったことのないことにチャレンジしてもいい。そんなことを、ぼんやり考えていました。ある日の会議で、いくつかのアイディアが俳優から提示されましたが、私自身、そのどれにもピンときませんでした。やりたいからやる、というのはまったく正しい姿勢ですが、複数の人間で物事に取り組むには、やはりもう少し客観的な動機が欲しいものです。3月11日の出来事も、その日の会議を難しいものにしていました。 議論が停滞する中、ふと「終戦直後の日本の小説」をモチーフにしたらどうだろう、と思いつきました。震災と戦争はもちろん違いますが、あの時の一面の焼け野原を前に、小説家たちはいったいどんな言葉を書いてきたのか、それをまずは調べてみようということになったのでした。なんとなく「いいんじゃないか」という空気になり、その日の会議は終わったのです。 思い出していたのは、安吾の「白痴」です。「白痴」は2003年に一度上演したことがあるのですが、その時は小説を元に新作戯曲を書き、ある意味違う物語としての上演でした。「わからない」ところを「わかるように」書き直したと言ってもいいでしょう。他にもいくつかの小説が候補に挙がりましたが、最終的には、このやりきれてない思いがあり、もう一度取り組んでみることにしました。今回の上演では、テキストには何も加えず(上演時間の関係で何割かはカットしています)あえて、小説を小説のままお伝えしようと思ってます。安吾の言葉の振幅を、俳優の肉体でさらに増幅するように演出したつもりです。ぜひ、浴びるように、白痴を味わってください。 なお、今回使用した楽曲は、2003年の上演時に寺田英一さんに書き下ろしていただいたものです。演出は全然違うのに、驚くほどはまって、びっくりしています。 |
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いのちもてあぞぶひとの舞台写真だよ!(今年の7月) みるめ舞台写真 | 島田舞台写真 本当に、本当にいろいろなことがあった2011年でした。 僕らはやっぱり、お芝居をやります。 よかったら観に来てください。
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「白痴」より抜粋 俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中でうすぎたなく汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。 明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何か希望があるのだろうか。何をたよりに生きるのだろう。どこに住む家があるのだか、眠る穴ぼこがあるのだか、それすらも分りはしなかった。 |
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