『ペリカンの群れ』劇評――失われた「私」という記憶

平林 郁恵

「私」とは何者か。そう問われたとすれば、日頃安心しきって馴染んでいる「私」という人間が、たちまちかすんで見えなくなってしまうだろう。そんなにまで自分というものを問い詰めたり、見つめ返したりした経験がほとんどないからだ。
私達は、他人のことや身の周りの物事については客観的に観察し、批評することができる。だが、その目をそのまま自分に向けようとしても、物理的に外部から知られているように自分で自分を見ることなど不可能だ。その事実に気付いた時、人は「私」という迷宮の中に放り込まれてしまう。あれほど他人については自信に満ちて的確なことが言えるのに、その眼差しの根源がこんなふうでは「自信」も怪しいものだ。考え、感じるその主体の正体があやふやなままで、どうして「私」は「自信」をもって考えることができるのだろうか――。
このような疑念に取り付かれた者達が、ここにいる。
一つの思想を共にした彼らは、「革命を起こし、日本を変える」――はずだった。しかし、彼らは「集団」という名の"格子"に入ったに過ぎなかった。それは、限られた枠内に自らを閉じ込め、時に人間らしく生きることを妨げる"格子"である。彼らは、そこに埋もれることで「個」を抑制し、「人間として最低限の生活さえ犠牲にしてきた。」食料も住居もない生活の中で、男は欲望を抑え、女は自らの性をかなぐり捨てる――意識的にそうすることで、彼らは"革命"の先にある"希望"を信じて、追いかけた。しかし、それは間違っていた。人間はやはり"本能"を捨てられないのだ。その根本的事実を認めたくない彼らは、「自己批判」と称し、仲間の総括、死刑を繰り返していく。
しかし、本当は大槻も長田も気づいていたはずだ――そこには「集団」に埋没され、個人の「欲」を抑えている"偽りの自分"がいるということを。そうして、彼らは仲間を、そして自分自身をも信じられなくなるのだ。
そのような「集団」と「個人」の葛藤の末、「自己凝視」に至る彼らの姿を、この作品で作者は見事に描いている、と言える。例えば、山崎が大学生の小寺に思いをよせる一方で、組織が提示する"禁欲"に抑圧され懊悩する心情を、矛盾したセリフの言い回しで表している場面。
「僕には女を犯したいという欲望がある。忘れていたけど、その欲望はいつ果てるとも知らず、身体の中にある。今もある。ああ、なんてことだ!そんな糞みたいな欲望に振り回されていたなんて!ありがとう!同士!君は命の恩人だ!僕に希望を与えてくれた!」そう自己の否を認める一方、「誘ったのは僕です。」と小寺をかばおうとしたりする。と思えば、彼が坂下を殺そうと追いかける時、それをとめる小寺に向かって「どかないと、君をまず死刑にするよ。」と愛情のない、冷酷な発言をしたりする。このようなちぐはぐなセリフの言い回しが行われることで、私達は"禁欲"というものが人間にとってどれだけ残酷で、苦しい試練であるかを自らのことのように体験させられる。作者はまた、長田が鏡を見ながら髪を直すシーンを伏線として、やはり女を捨てきれないでいる姿を描いているが、そこにもまた「集団」がもたらす「個」の抑制に対する皮肉が、こめられているように思う。
遠藤の妻である金子にも同じことが言える。彼女は代を次いでの革命のために、遠藤という愛する夫がいながらも、森岡の子、ひいては「革命の子」を宿す。「確かに森岡さんを助けたい一心で今ここに子供はいる。だけどあなたのことは好き。」この弁解の裏には、個人的な感情がありながらも、結局は組織という「集団」に従った金子の姿がある。そして結局、彼女は最後まで"偽りの自分"から脱しきれない。
しかし、この物語の中で唯一「自分」を守ろうとした人物がいた。森岡の妻、吉野しのぶだ。彼女は始終、薄汚れた兎を胸に抱いている。子供が産めない身体なのだ。金子のお腹にいる赤ん坊が、自分の夫の子であることも知っている。しかし、吉野は決してその事実を認めようとはしない。「組織のため」に働くことだってない。それは、金子のお腹に棒を突き刺そうとしたり、仲間を挑発するような彼女の口調からも分かる。そして船が発見される直前、吉野は森岡に「名前、つけて。まだこの子、名前がないの。」と言ってぬいぐるみを託し、自殺してしまう。結果として死を選んでしまった吉野だが、決定的に他の仲間と違うのは、最後まで決して「自己」との戦いをやめなかったことにある。自分の感情に素直に従い、死という手段で集団からの離脱を決意した吉野の姿には、人間の持つ、本質的な"輝き"があるように感じられた。
このようにして作者は、私達人間の究極の課題ともいえる「私」というテーマを、「集団」との対極において見事に表現している。
だが、そこまで、なのだ。三十年前の、「連合赤軍・リンチ殺人事件」を想起させる『ペリカンの群れ』には、大槻が「我々は命をかけているんだ。」というまでの人間ドラマは、残念ながら描かれていない。もちろんこれは、過去の記録や再現ではない。時代設定も場所も虚構のものである。しかし、"生きる全ての人が幸福になれるような世の中を作ろうとした"点は、同じではないか。当時の若者達は、本気で"命"をかけていた。きっとそこには私達には計り知れないような苦悩や葛藤があったはずだ。しかし、作品中で「自己批判」といってアイスピックを突き刺すシーンも、女を捨てたことを証明するために服を脱ごうとするシーンも、私には"中途半端"な行為にしか映らなかったし、ましてや全員で服を脱ごうとして結局は脱ぐのをやめるシーンも、滑稽にしか見えなかった。多少なりとも事実を盛り込んでいる以上は、壮絶な戦いが繰り広げられる中で「死」を覚悟した人々の心情が、一体どのようなものであったのかを、もっと深く考え、表現して欲しかった。
だが、実際の所、歴史的事実、特に連合赤軍のような事件を描き切るのは不可能に等しい、と思うのも本音である。なぜならそれは、単に凶悪な犯罪でしかなく、決して劇的な物語には成り得ないからだ。それが『ペリカンの群れ』を、困難な作品にしている原因の一つではないだろうか。
しかし、私はこの作品が嫌いではない。最初にも述べたように、人間の本質を考えさせられるようなテーマ性もあるし、何より役者がおもしろい。中でも特別私の目を引いたのは、大槻役の小長谷勝彦だ。誰よりも強い思想を持ち、暴力を楽しんでさえいるように見える大槻の"狂人ぶり"を、小長谷は見事に表現している。喜怒哀楽の激しさはこの人特有のものであると思うが、セリフの間のとり方や瞬発力は抜群であった。また、吉野を演じた大枝香織は、観客の目をはっと引くような存在感がある。大枝が放つ鋭い視線や、客観的に物事を見ようとする冷淡さは、正に吉野の"それ"を思わせる。また、大枝のトーンの低い、よく響く声が、吉野のはき捨てるようなセリフを"生きたもの"にしていたように思う。
もちろん、中には物足りなさを感じた役者もいる。小寺役の衣川由美は、一定した演技ではあるが、それが却って観客の興味を薄くしていた。これとは対照的に、坂下役の増田理は独特の動きと口調で観客の笑いを誘うが、それは単にでしゃばっているだけのようにも映った。
だが、それぞれに味があり、おもしろい。実力は様々であろうが、そのでこぼこした演技力を持つ役者達の集結が、この『ペリカンの群れ』を印象深い作品に仕上げていると、私は考える。

名前:平林郁恵 年齢:19歳
現在、早稲田大学第一文学部一年に在籍。中学三年から高校卒業までの四年間をロンドンで過ごす。演劇を始めたきっかけはイギリスで多くのミュージカルや演劇に触れたことにある。現在は、どのようにして「演劇」と携わっていくかを模索中。
趣味はテニス、ピアノ、乗馬、映画鑑賞など。好きな作家は吉本ばなな、村上龍。