観劇リポート『もう花はいらない』

岩月 邦彦

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 『もう花はいらない』は東京に住むある夫婦が休日に、故人である老画家の元アトリエであった神奈川県の相模湾に面する地方(鎌倉付近か)の別荘を訪れたという設定で始まる。舞台上には別荘のある一室が再現され、一場面には同時に2から4名の役者が登場する。場面の合い間の暗転の際にはやや物悲しげなピアノの曲が流れ、小奇麗に片付けられた部屋の中には、鍵が紛失して蓋の開かないピアノが1台置いてある。部屋は、建物の中で唯一窓がない空間という設定で、置かれた1台の机と2脚の椅子の周りで、役者たちは時に椅子に座り、時に床に寝そべったりしながら、言葉を交わしストーリーを進める。
この原作である谷崎潤一郎の『痴人の愛』は、大正時代の東京に住む、ある凡庸な会社員がカフェの女給である少女ナオミと知り合い、彼女の肉体に魅せられ、のめりこみ、魂が荒廃していく様を告白する、という小説である。この小説の最大の魅力は、技巧の限りを尽くして表現された少女ナオミの肉体についての描写である。しなやかな肢体に満ち溢れた若さと成熟に向かう女体の美しさは、文章の向こうから読者を蠱惑し日常から離れた官能的な世界へと誘い掛けてくる。ここには「男性は女性の美しさの前に完全に屈服する」という谷崎の思想が全面開花しており、悪魔的とも称された彼の作風にふさわしい。
『痴人の愛』のように、一人の人間が訥々と自分の個人的体験を語るような話は、演劇ではどちらかというと一般的ではない。そのため『もう花はいらない』では、主人公の性格をやや理想主義にし、彼の閉じた心を完全に内にこもったものからやや社会的なものに変え、周囲の人間との関係を描き出そうとする試みがなされたが、そのためにかえって主人公の狂気と自己陶酔という属性が薄れてしまい、迫力不足となる結果に終わってしまった。しかし、舞台上では演劇ならではの趣向が凝らされ、原作には登場しなかった河村の従姉妹、時子の存在もあって、なかなか興味深い場面をいくつか見つけることができた。また、この作品を見たことにより原作に対する理解がより一層深まったのが大きな収穫である。
 そもそも原作の事件は、東京で一人暮らしをする真面目で模範的なサラリーマンである主人公、河合が、単調な生活に飽きたことに端を発する。道楽をするわけでもなく、今現在の気楽な生活を捨てて妻を迎える気にもなれない彼は、殺風景な部屋の中に自分のためだけの宝石箱のような存在を求めるようになった。その願いを叶えたのが当時、浅草のカフェの女給をしていた15歳の少女ナオミである。彼女に自らの知識や金銭を注ぎ込んでレディーに仕立て上げるという行為は、日常生活の繰り返しによる閉塞感に悩まされていた彼にとって、道徳的にも問題がないと同時に優れて人間的な営みであり、灰色な生活に彩を添えるものと感じられたのである。 
今、書いたように『もう花はいらない』では、主人公の設定に幾つかの変更が加えられている。まず名前が「河合」から「河村」に変更され、職業が技士から中学の国語教師へと変わり、しかも一度教師になった後、大学へ戻って国語の資格を取り直したという複雑な過去が加わっている。それに伴いナオミはカフェの女給から元教え子となり、二人の馴れ初めは荒れた家庭に育った彼女を彼が指導しているうちに情がうつって結婚した、と対応している。どちらの例によってもナオミの存在が、自身、救われることで相手を救う逆説的な存在となっている点で共通しているが、原作の方がナオミを家に迎える動機が日々の寂寥感から来ているだけに、より欲求が切実なものであるように思われる。
主人公が持つ理想のもろさを、そのままズバリ指摘するのが『もう花はいらない』のみに登場する時子である。大沢という別荘の管理人がナオミを同伴して歩いているのを見て、時子は河村にナオミは大沢と浮気をしているのではないか、だからここへ連れてきたのではないか、と疑問を呈する。そして面と向ってナオミに「ねぇ、したんでしょ、セックス!」となじる一方、あくまで妻を信じて弁護しようとする主人公には「だって、浮気じゃなかったらなによー」と、妻との対決を促す。私は原作の『痴人の愛』を読んで、一人くらい河合にナオミと別れるか、もしくは妻との関係を根本的に見直すことを勧告する人物が登場しても良いのではないか、と感じていたので、舞台上での時子の登場は痛快であったし、彼女の強い責任感と他人の魂の荒廃を阻止しようとする言動には心の中で拍手喝采した。もっとも時子が言いたい放題、語って、興奮のあまり持っていた菓子を周囲の人間に投げつけて部屋を出てしまうと、掃除をしながら河村に「女って何でこうなんだろ。後先考えないっていうの?投げたら掃除しなくちゃいけないでしょ」と嘆かれてしまうのだが。
ただ、何れにせよ原作とは異なるエンディング、河村が自分の今までの人生を反省し、新たな目標を見つけそれに向かって進もうとしていたところに、ナオミも戻ってきて二人が結ばれる結末には、正直、救われる気持ちがした。最後に部屋に掛けられている絵が外れて、窓がないと思われていた部屋に光が差し込んでくるという演出も新鮮だったが、それよりも印象的だったのが開かなかったピアノが最後に踏み台として役に立つという仕掛けである。本来なら毎日の生活の慰みものとなるべきピアノが役に立たず、ただの箱としてのみ役立つところが、いかにも多くの娯楽を提供しているようでありながら、むしろかえって閉塞感を助長している現代の“文化一般”に対する鋭い切り口を突きつけているようでハッとさせられた。