観劇レポート『白痴』

岩月邦彦
 私が初めて彼の角川文庫版の『堕落論』を読んだのは、たしか中学生のときだった。最初に収められていた『日本文化私観』を読んで感じたのは、とにかく「暗い」ということであった。とくに驚かされたのは『青春論』の次の一節である。

 しかし、この話はただこれだけで、なんの結論もないのだ。何の結論もない話をどうしてかいたかというと、僕が大いに気負って青春論(または淪落論)などと書いているのに、まるで僕を冷やかすように、ふと、姪の顔が浮かんできた。なるほど、この姪には青春も淪落も馬耳東風で、僕はいささか降参してしまって、がっかりしているうちに、ふと書いておく気持ちになった。書かずにいられない気持ちになったのである。ただ、それだけ。

 この姪というのは結核性関節炎で20歳の短い命を終えた安吾の肉親だが、「なんの結論もないのだ。ただ、それだけ」とあえて書くところに、安吾なりの彼女の死に対する哀惜の情を感じさせる。ただそれによって、話を唐突に打ち切ってしまい、今まで書いてきた内容を全て否定するかのような素振りを見せるところに彼独特の性格が表れているように思う。私としても『青春論』という題目で書いて、時おりフッと空しくなるのは共感できる気がするが、普通、そのような自分の一時の感情は書かないのが常識であるし、あえて型破りな書き方をして読者の注意を引き付けるのは彼一流のサービス精神の発露ではないかと思った。
 さて、今回ユニークポイントと風琴工房が、駒場アゴラ劇場にて、合同で坂口安吾の『白痴』を戯曲化したわけであるが、この独身の映画演出家が隣人の白痴女との奇妙な交際を描いた小説をどのような芝居に仕立て上げたのか、公演案内に書かれていたとおり原作を読んでから劇場へと向かった私には、多いに興味のあるところであった。
まずユニークポイントについて書くと、演出の山田氏は原作では戦中に設定されていた無法地帯を、そのまま近未来に再構成するという手法をとり、耐乏生活という舞台設定を非常に大事にした芝居になっていた。原作では登場する人物たちの性格の描写にあいまいな部分が多々あるのだが、このユニークポイント版の『白痴』では一人一人の性格がしっかりと描かれ、山田氏が各登場人物をどのようにとらえたのか、手に取るように理解することができた。この作品を見たことにより、原作のストーリーをより深く味わうことができるように感じたのが大きな収穫である。
また風琴工房は、独自の解釈に基づいた全く異なるストーリーを展開していた。ここで原作と芝居の違いを比較するため、原作の『白痴』の最初の部分を少し引用したい。

その家は人間と豚と犬と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物もおのおのの食物もほとんど変わってはいやしない。物置のようなひん曲がった建物があって、階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしていて、この娘は相手のわからぬ子どもを孕んでいる。
井沢の借りている一室は母屋から分離した小屋で、ここは昔この家の肺病の息子がねていたそうだが、肺病の豚にも贅沢すぎる小屋ではない。それでも押し入れと便所と戸棚がついていた。

この文章を注意深く読んでみれば、語り手の主観と客観が奇妙に入り混じっていることに気付くはずである。語り手とはつまり主人公の井沢であるわけだが、本来、このような人物は無色透明な存在として登場するのが普通である。プレーンなはずの物語の語り手が独自の性格を持つ、という構造が原作に何ともいえない雰囲気を与えているわけであるが、風琴工房の『白痴』は物語の語り手を、あえて尋常ならざる精神の持ち主ととらえ、設定を会社員から殺人鬼に変更していた。たしかにこの井沢には、原作、芝居の両方とも自らの主観と客観的事実を区別出来なくなっているところが随所に見られ、それが殺人を引き起こす素地になると言われてみれば、たしかにそうかもしれない、と思われ、原作とは全く異なるストーリーも、それほど遠いものではないのかもしれない、と思わされた。
 最後に私から一言、坂口安吾の作品について語らせて頂きたい。やはり安吾の作品について言わせてもらえれば、彼の作品は批評やエッセイと最高のものなのではないだろうか。小説は、どうにも安吾自身のカラーが強すぎて、登場人物がいきいきとしていないような気がする。たしか時代小説などはなかなか面白いが、やはり、彼の批判精神は、批評やエッセイといった、彼自身が前面に出て思う存分語るところに本領があるように思う。原作の『白痴』の中には次のような一節があるので引用してみよう。安吾は戦中の一時期、日本映画社の嘱託脚本家をしていたが、おそらくその会社の描写だと思われる一節である。

 演出家どもは演出家どもで、企画部員は企画部員で、徒党を組み、徳川時代の長脇差と同じような情誼の世界をつくりだし義理人情で才能を処理して、会社員よりも会社員的な順番制度をつくっている。それによって各自の凡庸さを擁護し、芸術の個性と天才による争覇を罪悪視し組合違反と心得て、相互扶助の精神による才能の貧困の救済組織を完備していた。

 現実の暗部を見つめる視線が強いことこの上ない。このように鋭く対象へと迫る安吾の筆力は、純粋に想像力のみで構成された小説の世界よりも、現実を土台としてその上で考察された、批評やエッセイの方が適していると思われるのである。彼の小説を今回じっくり読んでみて、改めてそう思った。

名前:岩月 邦彦
年齢:25歳
性別:男
所属:絶対安全ピン
職業:アルファ福祉専門学校介護福祉士科1年
好きな作家:渡辺淳一