2002/5


 5/29(水)
■S高校で授業を終え、午後は細かな仕事。

■夜、稽古。いつも以上に嘘の効かない芝居である。今は、ひたすらにその嘘を排する作業をしている、たぶん。
 5/28(火)
■中間テストの成績提出の締め切りが正午。授業を自習にしたり、休み時間にやったり、どうにか間に合うのだった。

■夜、稽古。まさに第三コーナー。決断の連続。
 5/27(月)
■午前、S高校。夜、国分寺で授業。終日、身体が異常にだるく、どうしたものかと、ふと考えて、そういえば先週の土曜は、深酒をしたんだった。その影響しか考えられない、と結論を出す。うーむ。フィジカルな衰えは、焦りを伴うよ。

■稽古は休み。それでも、移動中などに、明日からの修正点などを考え続ける。国分寺の紀伊国屋で、村上龍の新刊を購入しようと思うが、そんな暇ないな、と一度手に取ったが、また棚に戻したくらいだ。

■風呂に入り、ビールを飲むと、なぜかこんな感じで文章を書けた。
 5/26(日)
■一週間ぶりの更新。

■今日も稽古。ただ、昼だけだったので、夜は中間テストの採点。

■昨日、初めての通し稽古。演出家にとっても初めてその作品全体を観る。残り日数を計算しつつ、修正すべき箇所を思い描く。

■それで今日は、昨日観ていて一番駄目だったシーンを返す。しかし、どこが駄目なのか、分かるときと、分からないときがある。分からないときは、実際に役者に動いてもらい、試してもらいながら、考える。すると、何となく見えてくる。それを俳優に伝える。この作業の繰り返し。

■それで今日、そのシーンはかなり変わった。もちろんあまり変わらない時もある。このへんは複雑だ。それから、変えたくても変わらない場合もある。こういうとき、稽古は停滞していると言う。

■最後に残るのは、果たしてこれが、私のどの欲求から来たものなのか?という疑問だ。欲求のないシーンはやはり駄目だろう。変わることと、よくなることは違う。いいか悪いかの判断は、演出家が自らの欲求に正直になることでしか、判断できない。

■稽古は折り返し地点。第三コーナーに差し掛かった。一番難しい。
 5/19(日)
■どうも、毎日書けない。もちろん書かないところで、誰かが困ることがあるわけではないのだけれども。
■昼から稽古。夜は、久しぶりに時間が出来る。ゆっくり過ごすことにする。
 5/15(水)
■午前中、S高校で授業。
■午後、増田くんと、制作作業。
■夜、稽古。稽古については、ポケカメ日記を。

五反田団には結局行けず。
 5/12(日)
■昼から稽古。稽古については、ポケカメ日記を。

■終了後、急いで下北沢へ。「劇」小劇場でONEOR8を観る。

■以下、長くなったので、覚え書きに。
 5/11(土)
■午前中、S高校で4時間授業。第2土曜だけの授業。
■すぐに稽古場へ。休憩1時間をはさみ、夜までみっちりと稽古する。

■稽古の模様は、増田くんがポケカメ日記に書いてくれています。面白いので見てください。ちなみに、ポケカメというのは、本人の使っている小さなデジカメのことです。実は私自身も家に帰って見るのが楽しみなんだな。
 5/9(木)
■S高校で授業をやり、そのまま国分寺で授業。稽古はお休み。
 5/8(水)
■夜、中板橋で稽古。
■終了後、アゴラでサミットの打ち合わせ。雨が降り、寒い夜だった。深夜凍えながら原付で帰宅。
 5/7(火)
■GWも終わり、稽古も再開。
■普通の会話、日常を描く、という視点から見れば、今回の作品は普通でない会話、非日常を描いている。

■日常を描こうと、非日常を描こうと、俳優は他人の言葉を喋り、自らの嗜好とは別の世界に存在するということは、共通である。しかし俳優にとって日常であれば、それは「何となく成立するもの」であり、ひどく簡単に出来てしまうという<錯覚>を覚えてしまう危険がある。錯覚で仕事をしてきた人間にとって、「なんとなくはできない世界」が目の前にあるとき、はじめて俳優は気づく。「技術」の必要性を。

■そんな当然のことができていない。

■圧倒的技術のもとにだけ、作品は成り立つべきだ。想いだけでは、もはや誰も見向きもしない。消費されるだけの「作品のようなもの」しか残らない。厚みのない、色のない、世界のない、人間の存在しない、そんなものになる。