2003/3-4


4/15(火)

■今日はM高校へ。時間割を学校に忘れてきたので、3時間目に間に合うように家を出たが、実際は4時間目からだった。仕方ないので、奥にある大学をぷらぷらしたりして時間をつぶす。そう、M高校は大学の付属高なのであった。それで、大学生に混じって煙草を吸う。足元はサンダル、そして手ぶらだ。学生は「こいつ誰だ」と思ったに違いない。きっとそうだ。今度は、授業ももぐってやる。

■夜、チラシの文章を作成。明日から、フラジャイルの公演が始まる。


4/14(月)

■月曜日。S高校で授業をやり、夜は国分寺で授業。国分寺で、村上春樹訳の、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を買う。

■夜、来年の公演計画を大山で練る。

■カンガルーの次の白痴のキャスティングが決まる。


4/13(日)

■午後、アゴラで、7月の劇場使用の契約を交わす。「歴史的な日だ」と平田さん。本当にそう思い、こちらまで、感慨深くなる。冗談で、「写真を撮りましょうと」言ったが、肝心の平田さんがジャージだったので断念する。

■それから2004年の計画を練りつつ日曜の午後を過ごす。


4/12(土)

■昼前には起きて、近くのジョナサンで「カンガルーと稲妻」の改訂作業。ほとんど変更はないと俳優に宣言していたものの、いざ直し始めると、いくつか新しいアイディアが浮かんだり、台詞が下手なところが妙に気になったりして、なかなか進まない。この作品、初演は99年、今から3年前だ。たかが3年、されど3年である。この間、台本を書くという作業において、得たものもあれば、失ったものもある。得たものが技術だとすれば、失ったものは、当時の感覚やスピード感と呼ばれるものであろう。失ったというか、忘れたもの、考え方が変化したものと言ったほうがいいのかもしれない。
■いずれにせよ、改訂の作業というのは、このへんのバランス調整が本当に難しい。下手にカットをすると、全体の持つバランスを崩すこともある。でも余分な台詞は削るのみ。この見極めが難しい。
■もちろん、ただパズルのように再構築するのとは少し違う。実際の上演を思い出しつつ、今ひとつだった部分を丁寧に直し、評判のよかったシーンは台詞を増やす。これが再演の一つの大きなメリットでもあるわけだ。一度やっている強み。

■しかし芝居は俳優によって、集団によって、さらに変化を生むものだ。8名のキャストのうち、7名が入れ替わった今回、新しい可能性と、期待がそこに存在する。

■稽古開始まであと3週間ほど。


4/11(金)

■今年から、S高校に加え、週に3日、M高校にも通うことになった。今週から授業が始まり、新しい環境で仕事をスタートさせた。最初の授業で、くだらない話しをしたが、あんなに笑ってもらえると、こちらとしては、さらに調子に乗ってしまい、だけれどもS高校では、ほとんど無反応であることを考えると、非常に嬉しいのだった。おまけに、これまでのS高校は男子校だったが、M高校は共学である。さあ、これから一年、やっていこう、そんな気分になる。

■二つの大きな仕事を抱えている。一つは、7月の「カンガルーと稲妻」の改訂作業。もう一つは、8月の「白痴」の台本。どちらも進まない。信じられないくらい進まない。これは今が4月だから、ということも大きいと思うが、それ以上に、よいものにしなくては、というプレッシャーがさらに拍車をかけているように思う。

■来週は、フラジャイルの受付に入る。さらになくなる時間。その中でなんとか、今月中には、先の見える形になるだろうか。


4/6(日)

■4月に入った。今年からこれまでのS高校に加え、M高校にも行くことになり、なにかとあわただしい年度始めを過ごしている。
■そんな時期だというのに、今日は劇団員とフットサルの試合に出たのだった。意外に面白い。というわけで、ユニークポイントは2003年度、フットサルにも力を入れることにした。対戦相手求む。


3/24(月)

■今週は、いわゆる公演ラッシュで、ラッシュとはつまり観にいく公演が集中しているということだ。劇団員が出演するものも、なぜか今週に重なっており、そのほかにも、倉迫さんのOrt-d.dもあり、これには三村さんも、青年団の小林君も出るので、なんとしてでも行く。

■ぴあを見ると、中村の出る風琴工房も、安本のペンギンも大きく掲載されており、だからどうだということでもないのだけれど、俳優にとって、異なる現場で、異なる方法論に向き合うこととは、すごく意味のあることだと思う。願わくば、その現場から、いい作品がうまれてくれたらなおいいわけで、とにかく期待する。


3/13(水)

■株価が8000円を割った。小泉さんの就任当時にくらべると、およそ半分だ。損をした人は、ものすごく損をしたんだろうな。個人もそうだけど、銀行・生命保険の会社はどうしようもないだろう。

■と、経済の話を書いてみたけれども、ものすごく遠い話しに感じる。「だって僕らの生活に影響ないじゃん」というわけだ。学校でもよく似たようなことを耳にする。「だって数学やったって将来役に立たないじゃん」と。
■生徒には「役に立たない」とはっきり言うことにしている。

■これは直接的には役に立たないだろうということで、そう決め付けているわけではない。直接的というのは、サインやコサイン、微分や積分は、知らなくても別に困らないということだ。

■もし、みなさんが真顔で16歳の人から同じ質問を受けたら、どう答えますか。ちょっと前に、「なぜ人を殺してはいけないのか?」みたいな議論が突如沸き、確かそれは、そういう内容の本が出版されたからだと記憶にあるが、果たしてその問いかけに明確な答えはあるのだろうか。

■数学的思考能力、論理的思考の訓練・・・とりあえずこんな言葉がぴったりだ。だけれども、数学なんて全然ダメだった、という人でも、論理的な人も何人もいるし、じゃあ、いったい数学的思考って何なんだということになる。

■まあ数学はいいんですけど、「株価なんかでぎゃーぎゃー騒ぐなよ。知らないよ、そんなもん。だいいち俺、株買ってないし」って言われたら、なんて言えばいいんだろうかと、ちょっと考えていたものですから。もちろん大変ですよ、それはたぶん。これだけ安くなってしまえば。


3/10(月)

■年度末ということで、4月以降のスケジュールが少しずつ決まってくる。もう4年も勤めた私学のS高校では、かなり思い切った人事が行われた。管理職のほとんどが入れ替わったり、クビになり、年齢や経験による人事を廃止し、これまで以上に進学率をあげ、生徒数の減少になんとか耐えようということだ。当然、現場からは批判の声があがり、ある教師は職を失い、ある教師は大抜擢されたことになる。すべての目標を数値目標とし、成果があがらなければ、配置転換、もしくはクビということもあるという。

■ただの非常勤講師としては、どのような人事が行われたとしても、来年度の授業のコマ数が確保されていれば、さほど生活が変わることはない。ただこの数日間、年度末ということもあり、幾度となく設けられた宴席でこんな話しを聞いていて、なんだか虚しい気持ちになった。

■いったいこれからどうなっていくのだろう。少なくともこの人事を受け入れた教師たちは、ウカウカしていられないと思ったろうし、漠然とした不安を抱いたはずだ。経営陣にとっては、こう思わせることが、1つの戦略であるとも言えるし、結果が凶と出るか吉と出るかは、恐らく誰にもわからない。ただ、どうしてもわからないのが、生徒数の減少=経営の不安、という危機に対し、営利企業のような精神やシステムが学校経営に、果たして有効なのか?ということだ。

■これはチャレンジではなく、俗に言われる「最後の賭け」なような気がしてならないのだ。

■で、ここまで書いてふと気がついたが、これが「民営化」というのか、と思った。かつて民営化された人たちは、そのとき似たような感じだったのではないだろうか。もちろん、今回の例は、民営化とは違うのだけれど、根本的な組織に対する考え方、つまり公務員で言えば、身分を保証されなくなったりすることが、似たような感じなのではないかと思ったのだった。教師という仕事でも、私立学校である以上、実際はサラリーマンなんだぜ、と突きつけられたのではないか。当然なんだけど、実際に突きつけられると、人間というものは弱いものである。