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作者インタビュー  聞き手:宍戸かなえ(演出助手)


「車椅子の非常勤講師」を主人公にしたわけを教えてください。

「障害者」の扱いに最後まで悩みました。本当に障害者を登場させる必要があるのかとか、障害の内容についても。芝居っていうのは、どんな芝居でもフィクションなわけです。ですけど、だから何をしてもいいっていう考え方は僕は嫌いで。やるからには、きちんと真摯に向かい合わなくちゃいけないと思っています。今回は私たちが、というか世間が、と言ってもいいかな、「障害者」をいかにイメージで捉えているのかっていうのがあって。今、駅なんかもどこもエレベーターができたりして、バリアフリーとか、福祉とか、色々叫ばれてますけど、そういう議論の中に障害者自身はどのように存在しているのかなあって思ったんです。もちろん、差別のない社会や、誰もが生きがいをもって暮らせる社会っていうのは、素晴らしい発想だし、この国が国の責務としてそういう義務を果たすのは賛成です。賛成ですけど、なんか「文句が出ないように、だからやる」って感じしません?ああ、これって、今のこの国の色々な問題を考えるときに、いいなあって思ったんですね。



「社会福祉科を新設する学校」を舞台にしたのはなぜでしょうか。

障害者が働いていそうで、実際あまり見かけないような場所はどこだろうって考えました。当初は市役所なども候補に挙がっていたんですが、あまり市役所には興味がなくって。僕自身が私立高校で授業をしたりしている関係で、これまでも学校が舞台っていう作品は何回かやってます。最初は『水の中のプール』。これは、演出がOrt-d.dの倉迫さん、2002年にアゴラで上演されています。次が、2005年の『鉄扉の中の自由』。これは演出も僕で、中板橋の新生館スタジオっていう場所でやりました。『水』は思いっきりフィクションで、『鉄』はもう少しリアルっていうか、今のスタイルに近い形で上演したんです。やっぱり、なんか学校を描くこと、行為に照れがあって。昔の恋愛を語るような気恥ずかしさね。まあそれで、安易に学校を舞台にはしたくなかったんだけど、でも障害者が働いていて違和感がなくって、なおかついそうでいない場所、これは学校しかないだろうって(笑)だから今回は3回目かな。学校ものは。いずれ、これを3部作でくくって上演することも考えてます。フィクション、リアル、そして今回はリアルだけど『イメージの世界』なんてタイトルだし、結構面白いんじゃないかなって。

『イメージの世界』ってタイトルに込められた意味はなんでしょう。

「イメージの詩」って曲あるでしょう?吉田拓郎の。あ、知らないか・・・(注:インタビュアーひと回り年下です)それでまずイメージの○○っていいなあって。それで、○○にくる言葉を色々探していたんだけど、なかなかしっくりこなくってね。「イメージ」って言葉は現実の反対のような気がするけど、でも今って「イメージ」が逆に日常やこの現実世界を作っているのではないかって思いがあって。真実に触れることなく、本質が何なのか分からないままにイメージだけで世界を見て生きているのではないかと。報道によるイメージの操作というものが、やっぱり僕たちにとって非常に大きなウエイトを占めていますよね。イラクでの日本人拘束のときも、国が個人の責任だと放ってしまった「自己責任」という言葉もそう。なんだか、あれ以来すっかり「自己責任」って言葉定着したけど、やっぱり報道なんだよね。そうなると一気に蔓延して、何をしたって「自己責任」ってことになった。便利だしね。だって、最終責任は個人にあるわけだから。そして、ああそうだなあ、って思うし、実際。でもね、これは恐いよね。極論だけど、戦争、なるでしょ。このままいけば。何かあればさ。



なぜ今、この作品を問おうとしたんですか。

ちょっと前まで、いかにこの世の中が絶望していて、ただ嘆いていれば作品になったところあったでしょ?「どうよ、この社会。ダメだよねー」って感じです。でもね、もうそれも通り過ぎたと思うんです。もうダメなの。もうそうなっちゃたの。一線越えたっていうのかな。だからもう僕たちがそういう社会とかを嘆いていたって、面白くなくなった。じゃあ何ができるだろうって思ったときに、やっぱり個のことを考えようと思った。簡略化された時代だけど、演劇はそのひとつひとつを顕微鏡で見るっていうかな、それは個のことだけど。舞台上で解決はしないけど、観客が考えイメージを巡らせる芝居にしたいと思った。「車椅子」って舞台上で存在感あるでしょう。でもね、稽古していくうちに、自然と車椅子から、個の物語にシフトしていく。この感じが、そのまま作品のテーマなような気がして。

(2007年2月11日 アトリエセンティオにて)



チラシに掲載された文章より

いつだったか、高速のパーキングエリアで飯を食べていた時、おじさんが話しかけてきた。そのおじさんは、障害者用の駐車スペースのことについて異論を唱えていたわけだけど、どこかあきらめのようなものも感じられた。おじさんにとっては正当な意見なのに、逆に自分が責められることもあると、多分知っていたからだと思う。

しばらくして某ホテルの社長が「玄関前に駐車場がない方が見栄えがいいし、身体障害者用の部屋も年1、2人しか泊まらない。」と説明する違反があり、その社長が「極悪人」のように報道されるのを見て、すぐにあの時のおじさんを思い出した。

おじさんが言いたかったことと、某ホテルの問題は、個と社会、建前と本音について改めて考えるきっかけになった。そして何ひとつ本当のことを知らされないまま、日々自分が生きているのではないかという恐怖を感じた。

子供が親を殺しても、親が子供を殺しても、もはや私たちは驚かない。テレビのコメンテーターは、わからないことはないかのように世界を切り取り、私たちもなんとなく納得したような気になっている。そんなイメージで塗り固められた社会に私たちは慣れ、疑問を抱かないことを強要されていることに、無自覚になっている気がする。誰もが納得するような安易なわかりやすい結論は、複雑化した現代に麻薬のように蔓延っていて、危険だ。

山田裕幸