団地の殺人──ユニークポイント『トリガー』──

松本 和也
 「1年9ヶ月振りのオリジナル新作公演」と銘打たれた『トリガー』は、何らかの「新しさ」を打ち出そうとした意欲的な公演であった。ただし、そこで目指された「新しさ」の内実については、少しく検討しておく余地があるように思われる。ごくごく乱暴にいっても、現代演劇が歴史的な「新しさ」を獲得するのは困難この上ないことであるし、逆に狭く考えれば、脚本が「新作」であるというだけのことかもしれないのだから。

 ユニークポイントの舞台をみる度に想起されるのは平田オリザの仕事である。具体的にいうならば、現代演劇シーンにおける「平田文法」による戯曲/演出への、戦略的な距離のとり方のことである。例えば、平田オリザ『演劇入門』を戯曲執筆のマニュアルとして読むならば、そこで具体的に教示しようとしていることの1つは、「リアル」な戯曲の書き方である。もちろん、ここでいう「書き方」とはマニュアル化可能な「技術」に過ぎないが、例えば、設定や状況をすぐに・自分で語らずに、舞台上に示したい情報を、そこから連想されるものを想定して、迂遠にかつ言葉(意味)の「リアルさ」を測定しながら書き込んでいく、というものである。もちろん、これとて、「現実」の「再現」でないことは論をまたない(平田戯曲には、つまるところそれが「演劇」であることの自覚が看取される)が、言葉の選び方、情報提示の仕方としては、平田戯曲は確かにそのようにできている。こうした「技術」は、会話劇が隆盛とされる今日にあってもなかなかクリアされない現状に鑑みた時、山田裕幸作『トリガー』の達成は正しく評価されるべきである。『トリガー』は随所で、場があり、人間がいて、会話が交わされる──そしてその後で、関係が朧気にみえてきて、それらの集積として、しなやかなストーリー展開に促されて物語が浮上してくる様は、この種の操作のお手本のようでもあった。

 さらに、少なく見積もっても、「フツーの青年が母親を殺すまでの話」「抜けそうだった歯の抜ける話」「母の介護問題を契機に夫婦が離婚する話」「不適切な場での不適切な関係が希望に変容していく話」といった複数のストーリーラインを、自在な伏線の敷設・回収によって織り上げた「戯曲」として、『トリガー』は佳作といってよい形式を備えている。

 ただし、「平田文法」を踏まえた劇言語で『トリガー』全篇が貫かれているわけでは必ずしもないし、つねにステレオ・タイプに淫してしまうプロット展開や、予定調和的な伏線の完全回収を果たしたラストシーンの冗長さなど、「平田文法」が削ぎ落とすことの前衛として切り開いた地平からの、後退も見受けられないわけではなかった。もちろん、こうした「平田文法」を軸とした比較・検討が妥当とも限らないし、ユニークポイントのコンセプトはオリジナルなそれとしてあるという立場も成り立つだろう。しかし、いずれの世界においてもそうであるように、今日、純粋な「オリジナル」なものが信じられるとしたらそれは「お目出度い」だけの話で、少なくとも、「小劇場演劇」の様々な財産を与件として成立している(と論者にはみえる)ユニークポイントは、劇団の意図や方向性は措くとして、観客の「期待の地平」としては「平田文法」とどのように切り結び、その上で、どのような、いうなれば「オリジナリティ」を出していくのかを興味とすることは、それほどの的はずれというわけでもないだろう。そこで、今一度『トリガー』を振り返ってみたい。

 まず、先に述べたように、平田オリザのいう「リアルさ」──劇空間への抵抗の少ない着地は、『トリガー』において丁寧に書かれていた。それと同時に、説明のための説明や、本来登場人物が対象化し得ないはずの超越した視点から状況を鳥瞰して語るメタ言語的なものの混入もあった。こうした様相と併せて考えておきたいのは、劇言語と、舞台装置に集約された(あるいは物語内容をも集約?した)「団地」的なるものとの共存関係についてである。『トリガー』は、団地の1室を、あたう限り細密に「再現」することを志向した装置を舞台として演じられる。問題なのは、こうした装置に顕在化している「リアルさ」への距離感である。これは、あるいは「動機なき殺人」の変奏が、今日何らかの衝撃を持ちうる演劇的主題として配されたことと同根の事態にも思われる。そもそも、『トリガー』もまた、他ならぬ「演劇」であり、「ウソ」以外のなにものでもない。「平田文法」にしても、それは本気で「現実」ないしは「日常」の「リアルな再現」を志向したものでは決してなく、さまざまな戦略を用い、「日常」を言葉によって再構成し、それを演劇という表象装置を通じて「ウソ」を「ウソ」と知りつつ、「リアル」なものとして提示しようとする方法論であったはずだ。一方『トリガー』では、会話劇にメタ言語が介入してしまう戯曲や舞台装置の「再現」への志向性、さらには(すでに活字・映像メディアでクリシェと化した)「物語」への信頼などから考えると、その劇言語は「ウソ」を通じて「現実」を表象することを目指していたのではなかったか? もちろん、違うかもしれない。しかし、この3つは、いずれかを戦略的に選択するならば、論理的には本来共存し得ない要素を孕んではいないだろうか? そこが謎であり、不満でもあり、また、次作への「興味」でもあった。それでもなお、『トリガー』にはこの3つが共存していたことは紛れもない「現実」である。となれば、この一文こそが、「現実」に追いついていないだけなのかもしれない。

松本和也 まつもとかつや/現代演劇研究・批評