〈恋と革命〉――『ペリカンの群れ』を読んで/観て

若尾 隆司

 15年前に日本を離れ「あの国」に支援されていた森岡をリーダーとするグループと、海外を転々とし「人間としての最低限の生活さえ犠牲にしてきた」大槻をリーダーとする二つのグループが手を結び、「革命」を起こすため船で日本へ向かう。ユニークポイント公演『ペリカンの群れ』は「革命」の可能性と不可能性に触れながら、ある集団における男女の在り方を描いている。
 森岡らのグループは森岡の妻である吉野、遠藤とその妻の金子、そして坂下と小寺という二人の大学生から構成されている。一方、大槻のグループはその妻である長田と山崎という若い男性の三名である。森岡のグループにおいては「思想」的な結び付きよりも、個人的な感情による結び付きが強調される。このことは女性メンバーがここにいる理由をみれば明らかだろう。
 吉野は家族を裏切って日本を飛び出し、森岡と一緒になった。しかし吉野が子供を産めない体であることが分かってから、森岡の気持ちは吉野から離れていく。そんな吉野は、森岡の言によれば「日本に帰りたいと言うようになった」のである。金子は「両親が離婚するとか仕事に嫌気が差していたりとか、しょっちゅうイライラしてた」ときに森岡を支援する話に乗って、海を渡る。そこで初対面の森岡から「黙って僕の子供を産んでくれ」と頼まれる。「ああここに私を本当に必要としてくれる人がいた!」と思った金子は、森岡を受け入れ、懐妊する。その後、金子は森岡の勧めで遠藤と結婚するのだが、その遠藤は後に分かるように公安のスパイであり、遠藤の「優しさ」を信じていた金子は騙されることになる。
 この二人の女性にとって「革命」などはじめから問題ではなかったのだろう。少なくとも社会変革という意味での「革命」を自ら成し遂げようとは考えていない。彼女たちが戦う相手は国家権力ではなく、しいていえば自分の意志を阻もうとする何者かなのである。そしてその意志とは、幸福になろうとする意志なのである。ただ愛する男性のそばにいるという幸福、自分を必要としてくれる人のそばにいるという幸福がなによりも彼女たちにとっては重要なのだ。それを〈恋〉と呼んでみたい気がする。さらにこの二人の生き方は、もうひとりの女性メンバーである大学生の小寺に受け継がれていくという予感を抱かせる。「革命」を支援するため船に乗ったというものの、ある種の感情に揺らいでしまう女性として小寺は描かれている。だからこそ大槻たちにつけ込まれるスキを与えてしまうのだが、このような不安定さは若い女性であれば当然のことなのかもしれない。その意味で彼女は大多数の若い女性を代表するのだ。そして吉野が森岡に、金子が遠藤に裏切られたように、小寺も山崎に裏切られることになるのである。そのことはともかく、彼女たちを突き動かすものが高邁な「思想」などではないことは、吉野の次の台詞からも読みとることができる。
 吉野は金子の夫である遠藤に、森岡の子供を金子が孕んでいることを告げたとき「嫉妬しなさい。殴るのなら、その嫉妬心で殴ってね。だったら、私は死んでもいい」と口にする。つまりは人間を突き動かすものが「嫉妬心」で表されるような個人の感情にあることを吉野の言葉は物語っている。そして「革命」に殉ずるのではなく「嫉妬心」によって殺されることをよしとするのは、人を殺すほどの「嫉妬心」にはそれに見合った愛情の裏打ちがあるからであり、吉野はその愛情をこそ信じているのである。いや信じようとしているのである。そのことは金子にも当てはまるだろう。彼女たちがいくらかでも「革命」に携わるとするならば、それは男たちが唱えるような社会そのものの変革をいきなり目指すものではなく、あくまでも自分の感情や自分の幸福が土台とならなければならないのである。
 こうした彼女たちの姿は、太宰治『斜陽』(1947)の主人公であるかず子を彷彿とさせる。華族の血を引くかず子は、戦後の混乱にあって自分の生き方を模索し「人間は恋と革命のために生れて来たのだ」という認識を持つに至る。そして「戦闘、開始」という呟きとともに妻子ある小説家上原のもとへ走り、たった一度の契りで上原の子供を孕むのだ。ここには旧来の価値観や道徳観を覆す存在としての女性が描かれている。上原の子供を身ごもったかず子が、上原に宛てた手紙には次のようにある。
 この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたはご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。私には、はじめからあなたの人格とか責任とかをあてにする気持ちはありませんでした。私のひとすじの恋の冒険の成就だけが問題でした。そうして、私のその思いが完成せられて、もういまでは私の胸のうちは、森の中のように静かでございます。
 私は、勝ったと思っています。       (引用は新潮文庫による)
 
 かず子にとって「革命」は、まず何よりも自分の意志を貫くことから始まるのだ。かず子の場合それは「恋の冒険」を「成就」させること、つまり上原の子供を宿すということだった。ここで「恋の冒険」というと、何か非常に軽率なものとして受け取られるかもしれない。しかしそうではないのだ。なぜならばかず子が身を以て示すのは「革命」のひとつの方法に他ならないからだ。社会を変革するには、男たちがそうであるように声高に「革命」を叫ぶのではなく、幸福になろうという意志を貫くことから始めなければならない。そのことを彼女は実践するのだ。そして吉野や金子らの「革命」も、まさにかず子の残した足跡をたどることで始まったといえるのではないだろうか。
 『ペリカンの群れ』に登場するもうひとりの女性、長田も例外ではない。子供を作らない理由を尋ねる森岡をまじえた大槻と長田との会話をみてみたい。

  大槻  駄目なんだ。あの女とは、そういうことをする気が起きないんです。
  森岡  そうですか。
  大槻  ええ。
  長田  …
  大槻  ねえ、君は、僕のことをどう思っている? ん?
  長田  ……可愛い。
  大槻  ……え?
  長田  可愛い。

長田の「可愛い」という言葉は、かず子の言葉が上原に対してのみ発せられたのではないのと同様に、大槻に対してのみ発せられた言葉ではない。この言葉は社会変革を声高に主張する男性すべてに向けられたものなのだ。あるいはこの作品に色濃く漂う、一見進歩的でありながら、その実これ以上ないくらい旧弊な女性観をもった男性に向けられたものなのだ。長田はそのような男性のもつ欺瞞を浮き彫りにしてみせるとともに、地に足のつかない男たちを子供扱いしてみせるのだ。それは本当の「革命」の意味を知り得ない上原に対して、かず子が「だから、いつまでも不幸なのですわ」ということに等しいのである。長田は知っている。大槻がいうような「革命」は起こらないということを。それでも大槻と行動をともにするのは、二人は「思想」でつながっているという言葉とは裏腹に、やはり「気持ち」でつながっていることを意味するのではないだろうか。
 しかしかず子が高らかに勝利を宣言するのとは異なり、『ペリカンの群れ』の女性たちは敗れ去ってしまう。よくいわれるように演劇が時代を映す鏡ならば、このことはどのように理解すればいいのであろう。女性による自己実現の可能性が極めて低い時代だということだろうか。あるいは女性は男性の犠牲者であるということだろうか。それとも何かを求め、手に入れることの困難さがいよいよ増した時代にわれわれがいるということだろうか。



 公演前に手元に届いたDMに書かれてあるように、この作品は連合赤軍にまつわる一連の事件や出来事から多くの着想を得ていると思われる。二つのグループが一つの目的のために手を結ぶという設定は、もちろん革命左派と赤軍派とのそれを連想させる。そして統一された組織内部における権力掌握のための闘争。そこで行われた「援助」という名の私刑。男も女もないと唱えながら、結局は女性に対して男性化を求める性差別。さらには胸をつらぬくアイスピックにいたる小道具までもが、連合赤軍内部において実際に起こった出来事をなぞるものであるのはいうまでもない。
 しかしこの作品で描かれるのは、連合赤軍そのものについてではない。この作品が問題にするのは、あくまでも男と女の在り方についてなのだ。しかしこのテーマを描くために、なぜ連合赤軍が参照されなければならなかったのかという疑問は拭いされない。なぜならば連合赤軍をモデルとすることで、人物が極端な類型性を帯びたり、その逆に極めて特殊な人間関係を要求したり、あるいは時代錯誤的な物言いを登場人物に強いることになったりするからである。しかも戯曲に目を通すと舞台が2004年に設定されていることが分かる。このことにより、ここで交わされる「革命」に関する論議はいよいよ虚しさを増すように思われる。連合赤軍を扱うのであれば、何らかの相対化が必要となってくるのではないだろうか。
 例えば立松和平は小説『光の雨』(1998)において、80歳になった元メンバーの一人が、死の間際に予備校生の男女を聞き役にして事件の全容を語る(=総括する)という方法を用いる。このとき老人の言葉は、すでに亡くなった仲間たちの気持ちを直接代弁したものになっている。また、この小説を原作とする高橋伴明による同名の映画(2001)は、現代の若者が連合赤軍を題材とした映画を撮ると同時に、そのメイキングも撮影するという枠組みを設定している。これらの方法・枠組みによって二つの『光の雨』は事件の相対化に成功しているのだ。一方『ペリカンの群れ』においては、大学生坂下が「子供の集まりじゃないか」「間抜けな大人たちだ」とグループのリーダーである大槻たちを批判する台詞に、相対化の意図が込められている。だがこれも男女の性の違いを越えて人前で服を脱げるか否かという、いまとなっては冗談でしかない要求に対してなされたものに過ぎず、根本的な相対化の契機には至らないのである。「革命」に邁進する証を人前で服を脱ぐという行為に求めるやり方が、先に述べたような時代錯誤的な認識を感じさせるのである。そしてそれを正面から描き出そうとすることは、この作品の戯曲段階でのリアリティーのなさにも直結してくるだろう。舞台は2004年なのである。またリアリティーのなさでいえば、公安のスパイである遠藤という設定にも無理があるだろう。遠藤が使用する「借りてきた言葉」によってまんまと欺かれる革命家集団もおかしなものだし、船の操縦士である黒岩に身分を明かして協力を得るという展開も、安易にすぎるという感は否めない。しかしそれでも『ペリカンの群れ』が演劇として非常に興味深いものであったことは確かである。それは細部まで疎かにしない山田の演出方針が、丁寧なスタッフワークそして出演者の好演に支えられ、成功していたからに他ならない。お手軽なものが大勢を占める現在の小劇場界にあって、丁寧な芝居づくりという点では、ユニークポイントは他の劇団を大きく引き離している。
 さて、実際に上演された作品であるにも関わらず、ここまで上演時のことに関して触れずにきてしまった。ここで上演時の印象を書き留めておきたい。
 舞台は一貫して船内から動かない。ただし全五場のうち二場だけは、大槻たちのグループの船が舞台となっている。一場から二場そしてまた元の森岡たちのグループの船である三場への転換が非常に巧みである。照明(福田恒子)の切り替えと船のエンジン音(音響・坂本柚季)の微妙な変化によって、実に鮮やかに場面転換を図っていた。また海上に浮かぶ船という設定は、断続的にあるはずの揺れを想像させ、その揺れはここで描かれる不安定な人間関係を象徴的に表しているようだった。さらに海に浮かぶ船のイメージは閉ざされた世界を連想させる。社会と隔絶され、閉ざされた世界にいる人間は自分の「思想」に対して盲目的になりがちだ。それがいくら世間からかけ離れたものになったとしても、自分の「思想」を客観的に見つめる視点を失ってしまう。劇場の空間を薄暗い船の中に変えた装置(福田暢秀)が閉ざされた世界を作り出すのに一役買っていた。山田は前作『水の中のプール』(Ortとの合同公演。演出は倉迫康史)において、ある島の学校を舞台にしていた。島、そして学校というのはある意味で閉ざされた世界に他ならない。そしてその閉ざされた世界にいる人間が、自分たちの誤りを肥大させていく愚かさが『水の中のプール』には描かれていた。その点で『ペリカンの群れ』と『水の中のプール』との関連を指摘することもできるだろう。
 『ペリカンの群れ』には、甲板からひと筋の光が船内に差し込むラストシーンが用意されている。この光の筋は閉ざされた世界がいままさに開かれていくことを暗示している。と同時に、ふだん心に様々な想いを抱えて生きなければならないわれわれにとって、あふれんばかりの眩しさを湛えたこの光は、われわれの心の闇を照らし出す光でもあった。
現在、都内の私立高校に勤務。二年ほど前から演劇鑑賞を趣味とする。
劇評を書くのは、青年座公演『湖底』(「青年座通信」342号に掲載)に次いで二度目。