現代・東京・演劇考──ユニークポイント『もう花はいらない』を中心に──

松本 和也

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【1 脚本『もう花はいらない』の物語構造と長ぜりふ】

 チラシなどにも明示されていたように、『もう花はいらない』は、谷崎潤一郎の『痴人の愛』という、大正13(1924)年に発表された小説を原作としている。作者の山田裕幸は、公演の挨拶文を「作者」というクレジットで書き、そこで原作との照応を拒否する身振りを見せているが、『もう花はいらない』の特質が明らかにしやすいので、簡単に原作/脚本の差異を検証しておく。それに、原作に対する脚本家や演出家の"読解"が問われないならば、既に名作の折り紙の付いた『痴人の愛』をことさらに演劇で表現することもないだろう。その意味で、山田裕幸は、無意識裡にせよ自ら賭金をつりあげているのだ。
 小説/脚本にはジャンルとしての差異が横たわっているが、それをおいた時気になるのは、脚本における歴史性の欠落である。原作は周知のように映画という文化に代表されるモダニズムの渦中で書かれ/読まれ、ナオミの造形もまた銀幕女優を不可欠の与件としていた。他にも、同時代の問題系において意味を持つ要素として、作中人物の階級・ジェンダー(結婚観・性役割)・教育といった主題が、原作の現代化という作業において無効とされていく。逆に、その時残されるのは、ナオミを中心とした人物配置とストーリーであり、つまりは表層の装いを変えながらも深層の物語構造は生かされていくのだ。*1
 一方、『もう花はいらない』において示された、原作の読みかえ=書き換えには興味深い点が散見される。倉迫康史はアフタートーク*2で、『もう花はいらない』の構造を分析的に読解してみせたが、それは以下のようなものである。──まず、河村と大沢はそれぞれ(いうなれば)善と悪を体現しており、その自己像はナオミという鏡によって支えられている。男たちは、異なった仕方でナオミに対して欲望を向けるが、その実、鏡の返照を受けては自己を主体化しているのだ。その意味で、ナオミの存在は実体的なものでなく、極端にいえば虚像である、と。そして終幕近くで、ナオミの他者性(不可解さ)に行き当たった2人の男は、それぞれ善/悪の自明性を疑い出すことで自らの基盤を失うというものだ。その現実的な表象が、身体が動かなくなる大沢であり(【2】で詳述)、生まれ変わって(一度の別れを経験してその後に)ナオミに向きあう河村ということになる。こうした地点において、ナオミもまた象徴的存在から人間へと変貌し、そのナオミに河村は"出会い直す"ことで幕が閉じられる。──つまり、現代化されたという脚本の成果とは、"ナオミと河合の物語"を、"ナオミをめぐる2人の男の物語"として、つまり2人の物語を3人の物語として読み替えた点に、まずは求められるということになろう。
 また、こうした"物語"の軸をなすナオミのセクシュアリティに関しては、そのスクリーンの向こう側のイメージを基調とした原作から、"触れること"という主題を抽出しており、これは演劇という表現手段を生かしうる点で、非常に効果的なものに思えた。男たちは欲望のおもむくままにナオミを眼差し、その身体に触れ、ナオミもそれを許し・誘い、そうした場面が各所に散りばめられる一方で、一人河村はナオミの身体から遠ざけられるという仕方で、ナオミのセクシュアリティの位相とその淫靡な意味が構成されているのだ。
個々のせりふの言葉はどうかといえば、そのほとんどが、会話劇に書き直されており、非常に短い台詞も多く配されている。だが同時に、時子を中心として、他のせりふに比しても奇妙な長さを持つせりふも散見される。もっとも、鈴江俊郎(劇団八時半)や夏井孝裕(reset-N)の脚本・舞台を想起すれば明らかなように、長いせりふ全てが悪いわけではなく、配置・演出によっては効果的ですらある。ただ問題なのは、それが往々にして説明的なものとして脚本全体のバランスを崩し、ひどい時には、観客が最も観たくないものの1つである役者の自意識(あるいはその露出を演技と勘違いしたもの)が誘引されやすい、という点である。そして『もう花はいらない』の長いせりふは、往々にして説明的で、おそらくは脚本全体が拒否しようとしているものを呼び込んでしまう危うさがある。
こうした批判を想定してか、脚本には以下のような一節もみられる。

濱口  違います。まず、僕は結婚している女性と不倫の関係になることは望まないということ。それから、僕のことをどう思っているのか、ということ。それから、・・・誰とでもああいう関係になるのはやめた方がいいのでは?という三点です。
河村  ずいぶんスラスラ出てくるね。
濱口  さきほどまで、ずっと整理してましたから。

意地悪くとれば、劇中のエクスキューズに過ぎないが、少なくとも脚本自体が説明的なせりふに対して批判的な視点を確保していることは確かである。ただ、それで全てが解決するわけではなかろう。だが、もしかしたら、こうした長いせりふに『もう花はいらない』、さらには今後のユニークポイントの活動を占う徴候が現れているのかもしれない。
 ともあれ、『もう花はいらない』が演劇である以上、脚本は演出という作業を通じて、俳優の身体によって演じられなければならない。となれば、次なる興味は当然、上述してきたような脚本の物語構造が、どのように舞台化されたのか、ということになろう。