現代・東京・演劇考──ユニークポイント『もう花はいらない』を中心に──

松本 和也

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【2 上演される『もう花はいらない』と記号としての身体】

 あらかじめ筆者の『もう花はいらない』観劇の印象を表明しておけば、【0】で述べたことを忠実に上書きするもの──つまりは"スタンダード"であった、ということに尽きる。しかし、そこには現代・東京・演劇シーンを考える契機となりそうな部分もいくつか散見され、その安定した完成度はもちろん、演劇としても魅力的な面が垣間見られた。
では、上演された『もう花はいらない』を、その演出と4人の役=俳優に焦点を絞りながら検証してみよう。プロローグとエピローグを演じるという意味で特権化されているのはナオミと河村だが、この2人に関しては、よくそのストーリーの視聴覚化を、キャラクター設定に従って達成していた。ただし、この2人の身体を通過したはずのドラスティックともいえる転機〜変化や、先に述べた"触れること"という主題は、脚本以上には演じられてはおらず、そこに欠けていたのは脚本の"読解"に基づく戦略的な演出である。5場には、2人の転機が"触れること"という主題と共に提示される以下のシーンがある。

河村  いいかい。僕は幻でもなんでもないんだ。もちろん、お前もだ。現実の中では一つ一つ、きちんと決めていかなくちゃならない。想像の中では、人はみんな幸福だ。…血も流れないし、人はいつでも生き返る。終わってしまうことも、でも始まることだって、実はない。
ナオミ へー。
河村  うん。
ナオミ 触ってもいい?
河村  え?
ナオミ あなたが現実だってことを確かめたいの。

しかし、こうした言葉を演じた2人の俳優の身体(演技)は、4場までのそれと決定的な差異があるわけではなく、そこに微かな変化があるとすればストーリーの進展に伴うそれでしかない。つまり、舞台においてこの2つの役は、全編を通して変わることのないキャラクター設定を、俳優が俳優自身の魅力によって担うことで演じられていたのだ。
そこで議論は、もう1人の"ナオミをめぐる男"に移るのだが、三村聡(山の手事情社)演じる大沢こそは、『もう花はいらない』という舞台の魅力と等価といってもよいほどに、傑出した何かを、その身体、もちろんキャラクター設定及びせりふの言葉との関係を築いた上での身体によって演じ=生きることに成功した、優れた達成だったといってよい。大沢は、脚本にも「だって、インチキくさいもの、顔。」「彼は、そういう人種なの、こうチャラチャラしているっていうか」(どちらも時子のせりふ)とあるように、"歪んだ軽さ"を強調されたキャラクターだが、そこから出てくるのせりふの"軽さ"を、三村聡は自らの身体を記号と化すことで演じ切った。ここでいう"記号"とは、俳優の身体が舞台上において、その実体的・実感的な質量を失い、ある抽象的な意味(作用)そのものと化した状態を指す。三村は、大沢のキャラクター設定に即応して脚本に書かれた言葉の意味をひとまず無化し、その意味作用への依存を断ち、身体においてそれら意味を持たない記号の"空虚さ"を表象していた、ということになる。そうした三村の演技は、作中の振る舞いによって他の人物の怒りや呆れを誘うに充分説得的なものであったし、その意味では他の俳優の演技にも説得力を付与してもいた。その上で、三村=大沢は、意味や倫理の重みを振り落とした"軽さ"を、その身体において、心地よいまでに演じて見せた。
中でも特筆すべきは、アフタートークで山田裕幸が「三村聡という役者がいなかったら、あの場面の台詞は書かれなかった」旨の発言をした、4場のラストにおける"変貌"であろう。三村は、それだけ読めば陳腐でしかない脚本の言葉の意味に頼ることなく、それでいてその言葉を語り=騙りながら、身体において大沢を襲う自己の基盤崩壊という精神状態を、その表象である、動かなくなる身体、という設定において演じ切って見せた。

大沢  動かないんです。
河村  なぜ?
大沢  どうしてだろう…知りたいのかな。いや、そうだ、知りたいんです。
   〔略〕
大沢  わからないんですよ。
河村  え?
大沢  こんなこと、初めてだ。/何もわからない。/何も思い浮かばない。/単に、お二人のこと、というわけじゃない。/もっとこう、なんというか、自分の、自分の身体が、/自分の中の…だめだ、言葉にならない。/足が動かない。もうどこへもいけない。/ほら、見て、身体が震えてきた。

 上記のせりふを語る=騙る三村の身体は、一時たりとも目を離せないほどのミニマムな変化を断続的に生き続け、ついにその"記号"とも呼ぶべき身体に、実感的・実質的な質量を取り戻し、そのこと自体を身体の不自由さにおいて表象してみせる。あるいは、内面のドラスティックな変貌を生きていた大沢の身体に、言語化し得る処理能力を大幅に超えた意味・倫理が一挙に襲いかかり、機能不全に陥っていく過程、といいかえてもよい。 
 この突出した三村の"記号"的な身体は、良くも悪くも(というか、責任をとるとしたら演出家しかいない)その脚本・演出の地平を、バランスを壊すほどに超えた感がある。
 こうした決定的な成果の反面、俳優の身体と脚本の言葉との不一致を生きざるを得なかったのが、【1】でもふれた、長ぜりふを課された時子ということになるだろう。それはおそらく俳優個人の問題ではなく、せりふの負荷とその〈野田・鴻上崩れ〉的な演出によるところが大きい。時子のせりふは、誰しも気づくように圧倒的に長く(それゆえここでの引用も控えるが)、さらに悪いことに説明的である。こと日常を模した会話劇を基調にする脚本において、そうしたせりふは悪所として目立たざるを得ないだろう。*3
 しかし、アフタートークにおける山田裕幸の発言を想起するならば、【2】で述べてきたことには、もう少し別の観点から光を当てて考える必要があるのかもしれない。そこで山田は、〈静かな劇〉が話題になった時、平田オリザの名前に言及しながら、そうしたミニマリズムからの逸脱を模索している旨の発言をしているのだ。稽古場で、俳優達に大きく動くよう指示していたとさえいうのだ。となると、大沢/時子をめぐる身体所作の振幅には、もう少し長期的な仕掛けが内在しているのかも知れない。