現代・東京・演劇考──ユニークポイント『もう花はいらない』を中心に──

松本 和也

1 2 3 4
【3 演劇なるものをめぐって】

 ここで「演劇とは何か」といった原理論を展開しようというのではない。ただ、明らかに現代・東京・演劇シーンの様相に自覚的で、〈静かな劇〉以降の地平をにらんでいると思われる山田裕幸の発言を参照しながら、『もう花はいらない』という演劇の可能性を探ってみたいのだ。山田は今回の公演に寄せた「演劇的とは何か。」において、"自然な演技=日常"という図式を誤解として排し、時には〈静かな劇〉の流れに位置づけられもするユニークポイントの主宰でありながら、〈私は日常を描くことには何の関心もないし、これからも扱う気はない〉と言い切る。そして、現代・東京・演劇シーンにおいて「似たような作品が多い」という声をよく聞くことに触れて、その原因を以下のように分析している。

恐らく「芝居くさい芝居を否定」した世代が、否定だけで終わっているからではないか。否定したならば、新しいものを創造しないことにはやはり表現者としては失格だし、そのような態度が、演劇という表現をダメにする。(『ism』)*4

ならば、山田=ユニークポイントはどのような方向性を志向するのかといえば、〈新しい「芝居くささ」を追求していきたい〉のだという。こうした発言から逆算して『もう花はいらない』を振り返ってみるとき、《新しい「芝居くささ」》に該当するのが、例えば三村が演じたような身体所作であり、時子に向けて書き付けられた長ぜりふなのかもしれない。もちろん、【1・2】で述べてきた批判点は『もう花はいらない』に関して取り下げる気はないが、安定して上質の舞台を上演してきたユニークポイントという集団を考えるに当たっては、逆に今後の展開が期待されるところでもある。
それでもなお、〈静かな劇〉に対する批判的距離が具体的に明らかになったとはいえず、その演出の戦略的意図の弱さをはじめとして、俳優の身体への意識の低さや、言葉と身体の関係が劇団において鍛えられていない点など、気になる点は多々あるが、やはりユニークポイントが"スタンダード"を超えてユニークな舞台を見せ、現代・東京・演劇シーンが活性化されることを期待したい。こと、【2】で論じてきた身体の振幅と言葉とのズレを、演出が調整できるなら、そこには、この文章での批判点を反転させた〈新しいもの〉──あるいは〈静かな劇〉の新たな展開──がみえてくるのかもしれない。

【補注】
*1:例えば、ユニークポイントの公演期間中に、三条会の関美能留が安部公房の『砂の女』を原作とした演劇を構成・演出している。そこでは『砂の女』の原作ストーリーの説明は全く企図されていない。舞台上では、原作における状況の特異性、主人公のおかれた境遇の寓意性、などといった原作から関美能留が読みとった強烈なモチーフが演じられる。なお、同種の試みは、同じく『砂の女』を原作として、倉迫康史のOrtが昨年試みてもいる。
*2:アフタートーク……「演劇と文学」と題されて、2/9の『もう花はいらない』終演後に、山田裕幸(ユニークポイント)・倉迫康史(Ort-d.d.)・詩森ろば(風琴工房)の3氏によって、こまばアゴラ劇場にて行われたもの。
*3:付言しておけば、装置を含めた舞台空間構成や照明も、"スタンダード"であった。窓、あるいは光の射し込む方向が脚本で意識されていた割には、5場でようやくその高さが生かされたのみであった。5場にしても、基本的には脚本の視聴覚化の域を出ず、"窓=光"のモチーフが演出として生かされたという印象はなかった。なお、【0】で言及した劇団の演出家達は、原作や脚本の演出する際、空間や光の処理に非常に戦略的であるし、あるいは『もう花はいらない』と同じ「冬のサミット2002」において上演された青年団『失うもののために』を演出した田野邦彦などは、絵画と"光"への演出効果を、観客も含めた繊細な配慮に基づき、劇場の高さを効果的に利用していた。
*4:山田裕幸編『ism〜イズム2002/winter』(サミット実行委員会)……冬のサミット2002参加団体による演劇論集。

* 典拠のある言葉は〈〉で括り、強調、あるいはこの文章において独自の文脈を込めた用語は""で括って表記してある。



松本和也。1974生。大学院在学中。日本近・現代文学専攻。日本演劇学会会員。